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自分で飛び降りた夢を見た日に俺は調律師になることに決めたんだ
羊と鋼の森p162~の一節
吹っ切れたように笑う由仁。突然涙をこぼした由仁。ほんとうに心が凍る思いをしたのはどちらか、という問いに簡単に答えられる人はいないだろう。

ビルの屋上。落下防止の柵の外に、ひとりで立っている。幅二十センチほどの縁からは、靴がはみ出してしまっている。はるか下に車や人らしきものが動いているのが見える。足がすくむのをこらえ、ぐっと両足を踏ん張る。目を上げ、空を見る。まだ、だいじょうぶだ。でも、風が吹いている。いつまでもつかわからない。誰か、早く助けてくれないか。無情にも風が強くなる。ビルがぐらりと傾斜した。気のせいだ。ビルは傾かない。身体が風に煽られただけだ。疲れてきている。足下がふらつく。もうだめかもしれない。
踏ん張って、こらえる。下を見ないようにして、どうにかやり過ごす。また風が吹く。身体が揺れ、ビルがさらに傾く。もう、あきらめてしまおうか。どうせ落ちる。いや、まただもう少しがんばってみよう。まだ助かるチャンスはあるはずだ。
しかし、また強い風が吹き、身体が大きく傾いてしまう。

秋野さんは赤いギンガムチェックのナプキンをきちんと結んでお弁当箱を片づけた。それから顔を上げて、どう?と聞いた。どうかと問われても答えようがない。秋野さんが頻繁に見ていたという夢の話だった。
「夢を見るんだ。なぜかいつも高くて危険な場所に立っててね、落ちれば確実に助からな
いのに、さらに過酷な条件が重なるんだ。強い風が吹くとか、ビルが傾くとか。夢の中で、これから必ず落ちるってわかってる。落ちないように、踏ん張ったり、必死にしがみついたりするんだけど、やっぱり最後には落ちてしまう」
淡々と説明してくれる。
「夢の中でも、落ちたら死ぬんですか」
僕が聞くと、秋野さんは首を傾げた。
「さあね。そこはあんまり重要じゃない」
「怖い夢ですね」
ではどこが重要なのだろうか。そもそもどうして夢の話など始めたのか。
「同じ夢を何度も見るんだ。最初の頃は、がんばってがんばって、ぎりぎりまで粘ってさ。それでも結局落ちるわけだ」
「嫌な夢だ。汗をびっしょりかいて目を覚ましてた。そのうちに、少しずつ夢の中でもわかるようになってくるんだよ。ああ、これはどうしたって助からない、必ず落ちるって。足掻いても無駄だって。それで、だんだん見切りをつけるのが早くなる」
秋野さんはかすかに笑みを浮かべて僕を見た。
「少しがんばってみて、一度風が吹いたらもうだめだってわかるから。最後にその夢を見ときは
言葉を切り、ちょっと考えているみたいに視線を落とした。

「今でもはっきり覚えてる。最後は高い山の尾根にいた。これはいつもの夢だって気づい
たから、風も雨も来る前に自分から飛び降りたんだ」
秋野さんは人差し指で目の高さから机にジャンプする線を描いてみせた。
「目が覚めたけど、寝汗もかいてなかった。あきらめるってそういうことなんだなって思った」
「夢の中であきらめたっていうことですか」
「わかりやすいだろ。自分で飛び降りた夢を見た日に、俺は調律師になることに決めたんだ
それだけ言うと、秋野さんは立ち上がった。
「さて、仕事行くよ」
「あ・・・・・・はい」
「四年」
即答だった。
「四年」
事務所を出ていく細い背中をぼんやり眺めていてから、気がついて後を追う。秋野さんはもう階段を下りていて、僕の足音に立ち止まってふりかえった。急いで駆け下りて、尋ねる。
「飛び降りるまでに、どれくらいかかりましたか」
小さな声で繰り返してみる。軽い衝撃を受けている。これから四年間、由仁は落ちるの怖がりながら過ごすのか。そうして結局、最後には自分で飛び降りるのか。
あの日、由仁が店に来て泣いた日、秋野さんが通りかかったのは覚えている。きっと経緯を聞いていたのだ。彼女がピアノをあきらめるのにそれくらいかかるだろうと秋野さんなりに教えてくれている。
四年が長いのか短いのかわからない。四年であきらめたつもりでも、ずっと引きずっていくかもしれない。それよりは、飛び降りてしまったほうがいい。
飛び降りるとき怖かったかどうか、秋野さんに聞いてみたかった。でも、勇気がなかった。落ちるまで味わい続ける恐怖と、それでも落ちていくときの絶望に比べれば、きっと自分から飛び降りるほうがましだ。思い切りよく、もしかしたらさっきみたいな笑みさえ浮かべながら、飛び降りたのかもしれない。そうだったらいい。
秋野さんはピアニストを目指していたと聞いた。その期間の長さや、注ぎ込んだ情熱の量にもよる。年齢にも関係するだろうし、もちろん性格によっても違うだろう。簡単に比べられるものではない。だけど、由仁がこれからの四年をうなされながら過ごすのはなんとしてでも避けたかった。僕にできることがあるだろうか。
秋野さんのすぐ後ろをついて歩き、駐車場へとつながる通用口で思い切って聞いた。「どうして、ピアニストをあきらめようと思ったんですか」
秋野さんは事もなげに言った。
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一文ではその空気感が伝わらないのが難しい。現にこのノートのタイトルだけでは何も感じない。